【宿主の徒然日記】

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木島平コブ滑走訓練所
元はスキー嫌い
スキーは大嫌い

でした。かつては。

私のスキー歴は振り返ること今から24年前、1986年3月にさかのぼります。高校の修学旅行が志賀高原スキーでして、当時1学年で12クラスもあった故、団体専用列車を仕立てての大移動でした。

修学旅行委員であった私は、鉄道好きのマツウラ先生に連れられて、大阪の宮原客車区に車両の下見に出かけました。
車両は165系の8両編成だったでしょうか?

まあそんな話はどうでもいいとして、一行は長野まで電車、そこから志賀高原横手山スキー場へと向かいました。
日もとっぷり暮れ、現地に到着。バスを降りた瞬間のあの鼻毛が凍るほどの寒さは今でもハッキリと覚えています。

担当のイントラは理佐子先生(よく覚えているものだ。。。)きっと大学生だったに違いありません。

翌日の開校式ではお決まりのデモンストレーション。宿舎の志賀パレスホテルの正面、前山の急斜面をイントラ達が豪快に滑り降りてくるのを見せ付けられました。

道具はもちろんレンタル。志賀高原のオハコであるOGASAKAでした。オガサカなんて名前は聞いたこともなかったので、その印象は非常に強いものがありました。

それから3日間。

横手山スキー場に張り付いてひたすら練習を続けましたが、3日目には自由に降りられるようになりました。

スキーは楽しい。もっと滑っていたい。

そう思える頃、全日程が終了、志賀高原を後にしたのでした。

それから1年後、晴れて大学生に。当時スキーブームは隆盛を極めていまして、松本市出身のある先輩は

スキーせぬもの、大学生にあらず

などと豪語していました。実は大げさでもなんでもなく、冬になったらスキーを楽しむのが半ば若者の常識のようになっていたのです。

冬になりました。とある友人が私をスキーに誘いました。

安いツアーを見つけたぞ。行こう。信州や。

どこや?

木島平&牧の入

あまり聞いたことのない地名でしたが、安いのでまあ良いとしました。

★続く★続く★
↓ ↓ ↓ ↓



時期は2月の第一週。後期試験が終わり、大学受験シーズン中の一応の閑散期でありました。

夜行バスに乗り、着いた先は


「ホテルユングフラウ」

木島平のベースに立つ大きなホテルでした。(現パノラマランド木島平)
早朝、部屋に通されるとそこには大きなダンボールが置かれていました。レンタルウェアでした。

しかしそのウェアの格好悪いことといったら。

表皮が破れ、中綿が飛び出しているものさえありました。とたんにテンションの下がる一行。しかし我慢するしかありません。

一行には福井県勝山市出身のスキーの上手い先輩がいました。

私は先輩に連れられ、リフトで一番上に連れて行かれました。今でも覚えています。牧の入の最上部です。圧雪のかからない、あの急斜面はそこそこの腕自慢でも手ごわいはず。

スキー歴1回の私のテクニックでは到底太刀打ちできるはずもなく、スキーを脱いで歩いて降りていきました。

まさかはじめて友人たちと出かけた木島平に、それから12年後に移住するなど夢にも思いませんでしたが、これがまさに私と木島平の出会いでありました。


=====

それから3年後

社会人になりました。スキーブームはまさに最高潮に達していました。JR東日本のCMでは頻繁にChoo Choo Trainが流れ、否応なしに若者の心を揺さぶり、刺激してくれました。

私はスキーセットを買い求めました。

4点セット2万9800円。

ブルーモリスの板に真っ白なリヤエントリーブーツ。一番安い品物でした。

愛車ジムニーに背面キャリアを装着し、1-2週間に一回は必ず出かけていました。
もちろん一人で。
昼飯を食べる時間が惜しいので、パンをデイバッグに忍ばせて、リフトの上でほお張るなんてこともありました。

1992年~1994年頃までの3年間、ただひらすらスキーに打ち込んでいました。
群馬県のとあるユースホステルのスキー教室にも参加しました。金曜日の深夜にチェックインし、土曜日1日+日曜日の半日レッスンのパックです。
定員80人ほどのユースが全てスキーレッスンの受講者。みんな20代です。
とにかく、すべるたびに上達が実感できたレベルでしたので、それはそれは楽しくて仕方がありませんでした。

ホームゲレンデエリアはもっぱら会津。空いているというのが一番の理由でした。最も頻繁に通ったのは会津高畑でしょう。それ以外にもだいくら、沼尻、猪苗代、OPEN直後のアルツにも行きました。

ところが1995年以降、スキー熱がパッタリと冷めてしまったのです。

その理由は

上手くならない

からでした。

スキー練習はひたすらもどかしさとの戦いでもあります。できそうでできない。なんどやっても上手くならない。上達への壁が立ちはだかったのです。
当時はカービングスキーなどという代物はありませんでしたので、誰しもが「パラレルの壁」に行く手を阻まれてしまうのでした。

楽しくすべれればそれで良い

と割り切って合理化するのも、良いのでしょうが、私にとってそれは負け惜しみにしかなりません。

やがて自発的なスキーをすることをやめてしまいました。
何度か友人に誘われて出かけることもありましたが、もはや積極的に滑る姿勢は完全に消えうせてしまいました。

1998年の3月、仲間と志賀高原に出かけました。が、不覚にも私はグローブを忘れてしまいました。
普通なら売店で適当な品物を買って急場をしのぐ物ですが、私は違いました。

グローブがなければスキーをしなくても済む

と考えたのでした。
実際、ゲレンデを目の前にして、滑ることはしませんでした。出かけた先は馬曲温泉でした。(ホント)

それほどまでにスキーに対しての熱が冷め切ってしまっていたのでした。

スキーが大嫌い
だったのです。

=====

会社を退職し、YH開業に向けての準備が始まりました。1998年12月から1999年3月まで、長野県内の立科白樺高原YHで住み込みをすることになりました。スキー場隣接の大型施設です。

YHのマネージャーであるT氏はこう言いました。

せっかくこんな場所に来たのだからぜひシーズン券を買って練習して2級を目指しなさい

イマイチ乗り気でなかったのですが、渋々38000円を支出しシーズン券を買い求めました。


ゲレンデに出ると、非番のコーチ達があれこれ指導してくれました。しかし、上手くなりたいという気持ちが希薄では、意欲も出ません。

夜の歓談の時間はひたすらスキー談義です。コーチたちは最低1級を持っており、準指導員、テクニカルの所有者が2-3人居ました。10年ひと昔と言いますが、当時は1級が上級者の称号であり、それ以上の有資格者の絶対数が少なかったような気がします。

ひたすら基礎スキー理論について白熱したトークが炸裂し、スキーに興味のない私には大変な苦痛でもありました。

38000円で買ったシーズンリフト券。
結局その後は2回出かけたのみでした。ドブに捨てたも同然でしょう。

やっぱり私は

スキーが大嫌いでした。今では信じられない過去の話です。
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コブが滑れないと悩むスキーヤーの駆け込み寺・木島平コブ滑走訓練所所長兼「みゆきの杜ユースホステル」宿主の中村英孝です!
自らの上達過程を経験のみでご指導申し上げる画期的コブ専門教習所です。
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Author:miyukinod

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